個人と組織の狭間で(宗教の歴史)

知的に幸せに

全ての宗教というのは個人の霊的な体験をベースに持っています。ところが、初期の人達がいなくなると、徐々に「組織化」が進んでいきます。そうすると、個人の霊的体験はないがしろにされるようになっていきます。

組織の考え > 個人の 考え
組織としての正義  > 個人としての正義
組織としての正しい霊的体験 > 個人としての霊的体験

という風になっていくからです。あまりしょっちゅう預言者や聖人がでてきて「神様のお言葉」の中身が変わっていくとめんどくさいので、そう簡単には神様の言葉を伝える人の存在を認なくなっていくわけです。その代わり、教えがマニュアル化されていき、サルでもある程度は分かるような情報を共有する仕組みができあがっていきます。

ところで、マニュアル化的なことが進んでいくと、葬式仏教ではありませんが、「ただ経文読んでるだけで何のありがたみもない僧侶」や「機械のような人間」が量産されていくことになります。そうなると、「人間を幸せにする」という宗教本来の目的がどんど遠ざかっていってしまうわけです。

ここで、革命や昔に返れ運動というものが起きてきます。再び

個人の体験  > 組織として正しいと認めた体験
個人の考え  > 組織の考え
個人の霊的体験  > 組織としての正しい霊的体験

という風に「原点に戻ろう!」という思想が草の根から立ち上がってくるわけです。

伝統宗教も出てきた当初は 「新興宗教」であり「反体制のヤバイ運動」だったりしたわけですが、メジャーになってしまうと立場逆転して「変化を拒否する」ようになってしまうのです。そこで、硬直化した組織が民衆の魂の声に答えられなくなっていくと、新しい人達が改革運動を起こす。

宗教史はこうした改革と硬直の繰り返しであるといっても過言ではないでしょう。

キリスト教関係で言うと

ユダヤ教→イエスの改革運動→これがキリスト教に→古代ローマでカルトとして迫害される→立場逆転してローマの国教に→今のカトリックに発展→硬直化が進む→ルターが改革運動(プロテスタント)

となります。

日本仏教でいうなら

奈良仏教→鎮護国家のためが中心→個人のための教えにフォーカスした密教登場→貴族たちに人気だが庶民の救済につながらない? → たとえば「念仏唱えるだけでいい」とした庶民向けの鎌倉仏教が続々登場

といった具合に、常に改革運動というのは起きてくるわけです。

このパターンは別に宗教史に限らず、歴史の長い組織のストーリーにはだいたい当てはまります。近代日本の政治史でいうなら

明治維新→世の中が色々新しくなる→昭和初期になると硬直化してひずみが出てくる→世直し運動がたくさんおきる→第二次大戦に参戦→敗戦→占領軍による強制改革→政治システムの硬直化が進む→改革の機運がおきる(21世紀初頭)

という感じです。例えば、先の大戦での敗戦というショックな出来事がおきると、旧世代の人達が敗戦責任をとらされるような形で一気に退場したため、大幅な世代交代が起きるわけです。ところが、そのあと交代した人達がずっと居座り続けたので、またぞろ組織の硬直化が起きるわけです。GHQ占領下で定められた様々な日本のためにならない制度の中に、独立回復から数十年を経てもいまだに改正されずにいるものがあるのは良い証拠です。

全ての改革者は権益を得ると、利権を守る者という存在に変化してしまうわけです。そして、利権を守る人達の守旧的な行いが目に余るようになると、また改革者や革命家があらわれる、という構図は変わることはありません。

nakajima oumi

nakajima oumi

シンボルと精神世界の研究家。 「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」。日本文化と欧米文化は異なるからこそ面白い。

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