THE Star 人間が精神的に解放されるために必要な善悪の知識

タロット

タロットカードの文脈での「星」というキーワードは解放や精神的な自由といったテーマを連想しやすい言葉です。

ところで精神的自由というテーマを考える時に大事なことの1つはどうやってそれを達成するのかということです。

「善悪の判断」という面倒なテーマを偉い人や閻魔様や聖典などに押し付けずに自分でも引き受けるということは、そのための王道的な方法の1つです。

規則を守ることが正義なのか?幸せであることが正義なのか?

国家レベルでは法律というルールがあり、会社レベルや学校レベルでもその組織の中でのルールがあります。家単位でも何かしらのルールや決め事はあるでしょう。

ところで学校の校則のようなもので言うなら「髪の色は黒であること」といったルールには意味があるかは謎なことも少なくないと思います。ルールの中には「もはや当初の意味がなくなっているけど、昔からあるというだけの理由で存続しているもの」も多いのです。

現代日本では「喪服は黒を用いる」ことが多いですが、こういうのも「誰かが言い出したことがたまたま慣習になって、それが定着したから」というだけの理由でルールになっているのであって突き詰めて考えれば合理的な理由は何もありません。偶然の結果が長い時間というプロセスを得ることで慣習として定着するというだけです。誰かが金色を使ってそれが定着したら、歴史的にそうなっているという理由で金色が使われるという展開になる可能性を否定することは不可能です。

もちろん「意味はないルールがたくさんあるけど、これを守ることで価値が生まれる」という場合は無意味なルールは何の問題にもなりません。が、人間を幸せにしないシステムがルールとして残ってしまっていないかという疑問はどこかに持っておくべきでしょう。

仕事なら、オンラインでも進められることが分かっている会議まで「対面で会うことに意味がある」とする必要もないでしょう。逆に「直接的に顔を合わせてやるほうが効用が高いこと(遊びとしての会食など)」を完全オンライン化しようと努力する意味もないでしょう。

ルールは人間を幸せにするために存在するものであって、ルールのために人間がいるわけではありません。

かつてイエス・キリストは細かいルールを順守することを重視する考え方の人たちを鋭く批判しましたが、「規則を守ること自体が自己目的化してたら危なくないか?もともとその規則は何のためにあったんだっけ?」と問う視点は誰にとっても大事な視点だと思います。

例えば性的な表現の規制に関して

表現物では生殖器を隠すことが善であるというルールが明治以降の日本や近代のイギリスなどにあります。美術館で「裸体画(はだかになってる身体の絵)はタオルをまいて展示せよ」といった騒動が起きることがある原因の1つです。

この規制は「肉体を低俗なものとして扱う価値観」からきていると推測することができます。「スピリット>肉体」の価値観が非常に強くなった時代があってたまたま「隠すのがルール」として法制化されたものが、現代まで生き残っていると考えることができます。

ところで例えば古代ギリシャでは「裸体=美しい」文化でしたので古代ギリシャの文化を復活させる取り組みがされたルネサンス時代のミケランジェロのダヴィデ像は裸体です。生殖器を隠そうという発想はありません。こちらは「肉体の生命力を賛美する価値観」と言えます。西洋美術を理解する上では「古代ギリシャの裸体賛美」は知っておくべき価値の1つです。

裸体をどう扱うかということ1つとっても時代によって主流になる価値観は変わります。

この種の規制が「正義なのか悪なのか」「意味があるのか意味がないのか」「くだらないから廃止させるべきなのか、何らかの理由で存続させるべきなのか」といったことは、考えてみる価値のあるテーマの1つでしょう。

あるいは遅刻に関して

キングダムで有名な秦帝国には「遅刻は死刑」的な法がありました。このルールが始皇帝の死後に反乱の原因になります。陳勝・呉広の乱という乱ですが、「遅刻で処刑されるより、反乱を起こして生き残ろうぜ」ということで兵士たちが反乱を起こします。この反乱自体は数か月で鎮圧されますが、これがキッカケとなって各地で反乱がおこり秦帝国は滅亡してしまいます。

厳罰による統治というのは、「厳罰よりは、服従のほうがまし」と思われている間は有効に機能します。始皇帝の生きている間は反乱の原因にならなかったのは、「始皇帝時代の政治はその前の時代よりは相当ましだった」ということでもあるでしょう。

ただ「生存したい」という人間の欲求は最上位の欲求ですので、これと対立するルールというのは正義としての地位を簡単に失いえます。

これは抑止力としての厳しいルールの有効性を考えさせられる話です。「厳しい掟があれば、抑止力になる」という話は、わりとあっさり崩壊することがあります。会社を首になってもなんとかなるさと思ってる人に対して「常務の命令をきかないとクビだぞ、お前の銀行員生命は終わりだぞ。」などと言っても、実は何の効力もないということです。

厳しいルールや鉄の掟みたいなものは、「じゃあ、そのルール破ります。死にたくないので。(あるいは死ぬことをあきらめたので)」と言われてしまえば意外とすぐ崩壊してしまいます。

 

まとめ

あらゆる問題を深く考えていたら日常生活を侵食されてしまいます。ただ、「何が善で何が悪なのかの判断」という重荷をできる範囲で背負うことは、精神的自由という多くの人にとって価値が高いものを得るための王道ではあるでしょう。

nakajima oumi

nakajima oumi

シンボルと精神世界の研究家。 「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」。日本文化と欧米文化は異なるからこそ面白い。一般論や常識に違和感がある方歓迎。

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