何か重大な決断をする時はさておき、日常での私たちは善悪の判断を極めて機械的にやっています。ただ、その善悪の土台がどこにあるかというと割といい加減な土台の上に善悪の基準はのっています。
例えば、「動物の肉を食べない」を善とする教えがあります。「じゃあ、動物はダメで植物はいいのはなぜですか?」という問いをした時に論理的な答えが返ってくることはおそらくないでしょう。「クジラの肉を食べるのはNGで、牛を食べるのはOKなのはなぜですか?」というのも同じで、ロジカルを偽装した答えが返ってくることはあっても筋が通った回答が来ることはないでしょう。こういうのは「その人達が信じてることがその人達の正義」の世界だからです。
「ある程度の共通ルール」がないと社会的な共同生活は支障をきたします。例えば、「モノを盗むことは悪である」というルールが共有されてない社会があったとしたら、商売というものが成立しませんしみんなが不便です。そこで「善悪のルールをある程度は統一しよう」という取り組みを人類社会は行ってきたわけです。ただ、最低限の「盗むな。殺すな。奪うな。」レベルのことはさておき、それより大きなルールになってくるとわりと流動的です。
「この世は善と悪の永遠の戦いだ!」みたいなバトルモードな精神から少し距離をとるためには、「世の中にはこんな思想がある。こんな正義感がある」といったことを言葉で把握しておく必要があります。そのために最も早い方法は、仏教、キリスト教&ユダヤ教&イスラム教、儒教、神道、など世界と日本の主要宗教や西洋や日本の色んな思想を入口だけでもよいので学ぶことです。
宗教・歴史・思想・哲学・・・、文系の一般教養は「実社会で役に立たないのでは?」とよく言われます。
ただ、そのあたりの一般教養を身に着けることは「善悪に振り回されて、ストレスフルにならない」ために極めて重要な武器になるのです。