結婚式はキリスト教式 葬式は仏教式 毎年の初詣などは神道で、というのが日本的な感覚です。
なぜこういうごちゃ混ぜが可能になるのでしょうか?
神様はみんな一緒、根は一つ
という感覚がベースにあるからなのです。見えない世界の存在は本質的には同じものという感覚があるのです。中世の日本では、仏教世界観と神道世界観が融合して独自の日本的精神世界を形成していました。例えば
アメノミナカヌシノカミ = 妙見菩薩 (天の中心な神という点が共通)
とか
アマテラスオオミカミ=大日如来 (太陽のような神という点が共通)
と考えられていたのです。
この感覚を発展させると
タケミカヅチ = マルス = トュール=大天使Michael =不動明王
という具合に無限に広がります。上のは「戦う神」という共通項で世界各地の神々を集めてきた感じです。
一ヶ所同じ性質があれば、本質的には同類とざっくりで分類するわけです。
なので、中世は、寺も神社もごった煮状態が普通でした。
ただ、明治時代に欧米列強という外国との交際がはじまると、「日本の独自性」というものが意識されるようになります。仏教では、インドのパクリじゃないか、支那のパクリじゃないか、と言われてしまう危険がありました。
また、神殿がなんでもごった煮というのも、美しくないといえば美しくありません。伊勢神宮は最高に美しい建築物です。奈良の大仏もとても優れた文化的価値がある彫像です。しかし、伊勢神宮に大仏がたってたら、あまり美しくないでしょう。
そこで、「英国や米国におけるキリスト教」のような「日本統一の精神的支柱」を必要としていた明治政府は神道を国家神道という国教的な扱いにして、神仏分離というのを行いました。
この時期、祭神が仏になっていた神社をお寺と分離して大急ぎで古事記の神々の名前に復帰させたりしました。現代でも神社とお寺が隣り合わせになっているような所をよく見かけますが、もともと一緒だったから隣あわせとかで立っているのです。明治期に特急作業で「神仏分離」を推進したので、現在では寺と神社は綺麗に別組織になっているのです。
ただ、形は分離していても、「神様的存在は根は一緒」という日本的発想そのものは消えません。なので
七五三は神社へ
葬式は寺へ
結婚式は教会へ
というのが日本的スタンダードになっているわけです。人間世界に現われた形が違うだけで本質は一緒、どこかでそう思ってるからこういうごった煮が可能になるわけです。