冠婚葬祭は、葬儀屋や結婚式屋や親戚のお年寄りの言われるままに全て式の内容を決めたらろくなものにはなりません。
彼らは自分達に都合がよい方法を「1000年前からの伝統」のような雰囲気で勧めるという習性を持っていることが多いですから。(笑)
親世代の常識はその前の親世代の非常識です。三世代も前を見れば、世の中の常識はだいぶ変わってきます。六曜(仏滅)の類いを気にする人はたまにいますが、あんなものが世間に広まったのは明治以降です。
江戸時代のカレンダーというのは占いネタを満載したものをが売られていました。ところが、近代化を目指す政府の規制で「カレンダーに占いをのせること、まかりならぬ」と占い禁止令がでたわけです。といっても庶民の好みがそんなカンタンに変わるわけもなく、占い抜きで作ったカレンダーは全然売れない。そこで困った業者が「あ、六曜みたいなテキトーなものだったら規制されないんじゃねーの?」と思って付けたのがはじまりです。
あの手の吉日選びの習慣に関しては、「神様がそんなこまけーこと気にするわけないじゃん (楽しめるケースはやってもいいけど、いざという時はさらっと無視できない人はやらないほうがいい)」というのが偽らざる実感です。
なお、おまじないや呪術の儀式などに関しては次の魔術師の言葉がなかなか参考になります。
これらの儀式は猿真似でする必要はない。それどころか、研究者は自分が理解していないこと は一切やらない方がよいのだ。それに、彼に少しでも理解力があれば、他人の高度に洗練された儀式よりも自分自身の未熟なものの方が効果があることに気づく はずだ。(アレイスター・クロウリー 『リベル・オー』)
以上。20世紀最大の魔術師といわれていたアレイスターの言葉です。魔術師や神官などの人達が、儀式をいかに設計すべきかという視点で書かれています。西洋人の言葉ですが、これは東洋にも西洋にも関係なく使える高度なレベルの話です。
一応解説します。
例えば、パワーストーンが好きな人に広まっている「石の浄化」というアイディアがあります。
これは一種の儀式なのですが、石のパワーで開運(例えばいい出会いを引き寄せる)、みたいな目的で行われています。
これは、浄化という儀式によって石を白紙の状態にして、「いい出会いが欲しい」などの意図によるプログラミングをするという目的で行われることが多いようです。
こういう儀式って、実は前提として「石が好き」という愛の力もないと効果は出ません。潜在意識に主観と客観の区別はないので、「自分が好き」という前提がないと効果が出ないということでもあります。
ただ、自分が嫌いな人や石に興味がない人であっても、「水で石を洗う」といった浄化の儀式をすることによって「石が好きです」という愛を身体で表現することになります。そうすると、たとえ気持がなくても「ウソがホントになる」ことが起きてきます。
その結果、
浄化をする→実際に人間の側の心の世界も愛で満たされる → 気持の変化 → 他人から見た印象の変化 →(中略)→何かいいことが起きる
ということが起こるわけです。
自分が嫌いという人でも、石に愛を注ぐふりをすることによって、自分に愛をそそぐふりをすることができるわけです。で、ふりでも行動で示すことで「ウソがホント」になっていくわけです。
また、「出会いを求めて、おまじないグッズとして石を購入する」という行動そのものが、「自分は出会いを求めている」という自分の望みをはっきり認識する行動になります。
儀式そのものが大事なのではなく「石に愛を注ぐ(=自分に愛を注ぐ)」「自分の望みを認識する」ということが大事なのです。
儀式や儀礼やおまじないは、単に他人の言ってることをうのみにして形だけ真似してもよいものにはならないということです。そんなことより「愛や尊敬」という気持ちがベースにあることが大事なのです。
※
ちなみに日本で結婚式なるものがはじまったのは明治時代です。昔は、自宅で内輪で宴会して終わりでしたが、明治期にヨーロッパにあるものが日本にも欲しいということではじまりました。つまり、みんなが伝統だと思っていることの大半はせいぜい100年程度の歴史しかないものも多いということです。