「そもそも前提が間違ってるから変えたほうがいい。」という発想ができない人間は、優秀なロボットのまま一生を終えることになるでしょう。もっといえば精神的に奴隷のままで、人間としての楽しみを知らずに人生を終了することになるでしょう。
昔話やおとぎ話にはよく、「怪物に、娘を生け贄に捧げるように要求されて困っている」というシチュエーションが登場します。古事記神話から欧州のファンタジーまで、万国共通で出てくるモチーフです。
怪物というのは「自分達にとって不本意な現実」の象徴と解釈できます。「自分の娘を怪物の生け贄にしたい人」なんてどこにもいませんよね?国際関係でいえば不平等条約みたいなものです。毒入りの食べ物を輸入するように要請されるようなものです。本当なら剣をとって怪物を倒すなり、うまいこと怪物をだまして要求をはぐらかしたり、そうやって現実を変える努力をすべきですし、そういう行動をしたいはずです。
ところが、智恵にもパワーにも欠けている村人達は何もできずに不本意な現実をそのままにしてしまいます。怪物を退治して新しい世界を作ってくれるのは、常に外の世界からやってくる若者(よそ者)の力に委ねられるわけです。
若者にあって、不幸な村人達になかったものはなんでしょうか?智恵でしょうか?パワーでしょうか?
それももちろんありますが
「前提を変える。ルールを変える。」
という視点がそもそも欠けていたのが一番の問題です。
怪物と正面から戦って勝てないなら、勝負のルールを変えて怪物を倒せば良いのです。
ヤマタノオロチ退治のスサノオも、ギリシャ神話の怪物退治伝説のペルセウスも、怪物と正々堂々と殴り合いをして勝ったわけではありません。スサノオは酒を使ったワナをはった頭脳戦でヤマタノオロチ退治を成功させていますし、ペルセウスはメデューサの首という反則技的なマジックアイテムを使って怪物を倒しています。
物事の前提を自分達に都合が良い所に設定する。神話の若者や英雄のようなこうした発想がなければ、「不幸だ~」と嘆く日々に終わりが訪れることは決してないでしょう。