(c) .foto project | 「からし種一つほどの信心があれば、あの山に動けと言っても動くであろう」(聖書 マタイ伝)という言葉があります。(聖書のからし種が今でいうどの種かには諸説ありますが、イメージとしてはマスタードのつぶでよろしいかと。) |
実際、からし種一粒くらいの信仰で超能力的なパワーを発揮したのが、紅海の海を二つに割ったモーセのような聖人です。イエス・キリストも「治れ」と一言言うだけで病人を治療したり、水をワインに変ええたり、一回死んで生き返ったり、超人的なパワーを発揮しています。
信仰というと特定の神様を信じる人に限定したパワーのように聞こえますが、他人の実感している現実世界がどうであろうと「自分だけの現実」をしっかりと思い込んでいることが、信仰というものの性質です。確信とか自信、と言い換えてもいいでしょう。この思い込みのパワーが強ければ現実世界に変化を起こせますよ、という話です。どんなにダメ人間だったり、頭が悪かったりしたとしても、「(実際は)自分はできる人なんだ」と根拠なく思いこんでおくことが、信仰や確信というものの本質です。
実際に山をひとつテレポートで動かせる人は神のレベルになってしまいます。普通の人間にはできません。ただ、山を動かすのは別に魔術や超能力で動かさなくてもブルドーザー1000台を動員して動かしてもよいのです。手品ではないのですから、現実を動かす時には最も合理的な手段で動かして問題ありません。
応用すると「運が良いと思い込むと運がよくなる」とか「オーラがでると思い込むとオーラがでる」とか「できると思うとできてしまう」などの話になります。
「普段の食費を切りつめてもよいので、たまには高い食事に行きなさい」と勧める講演者がいます。それもこれも自分にとっての「現実」を変化させるためです。いわゆる高級店で「きちんとした人」として待遇される経験は、実際にそういう雰囲気を作るものなのです。いじめられっ子体験が長いと卑屈な雰囲気が出てしまうというのの逆パターンです。
信念や現実感覚というのは、頭の中だけで変革しようとしても大変です。引き寄せられると思い込むだけで現実感覚を変革できるなら苦労はありません。
ただ、人間の現実感覚というのは、行動や環境といった外部要因を変化させると意外とあっさり変化してしまうところがあります。だめ人間でもいい恋人を得ると一気に変化してしまう人もいるわけです。
よく、不安でもいいから、不安なまま「とりあえずやってみなされ」ということが言われます。泳いだことがない人に「泳げる?」と聞いたらたいていの場合「泳げない」と答えるでしょう。しかし、泳ぎ方を知っている人からすれば「練習すれば泳げるようになる」というのが当たり前の答えです。知識のない分野はつい「分からない=できない」にしてしまいがちですが、正確には「単に知らないだけ」であって、「知識を得てしまえば、できるようになること」は少なくありません。
なので、まずやってみることが大事なわけですが、とりあえずやってみると「できる気がしてくるから」という心理的な作用もあるわけです。
私たちが「現実」と思い込んでいるものは、実際はものすごくいい加減なものです。なので、いかに自分にとって都合がよい「自分だけの現実を作るか?」ということを意識することが大切です。