なにはともあれ「これがあると元気になれるぜ!」的なものって誰でも何かひとつくらいは持っていると思います。「いや~、どんなにつらくても、ペットと遊ぶ時間があると元気が出る」とか「プロジェクトが終わった後のお酒が最高」とか「恋人とのセックスこそ最高」みたいな、なんでもいいのですが別にゲームやマンガでもいいと思います。「毎週ゲームをする時間だけが楽しみ」とか「ご飯だけが生きる楽しみ」というのでもいいです。
かぐや姫の竹取の翁の場合、「うちのお姫様(かぐや姫)さえ見てれば幸せ!」というよくいる親バカお父さんです。
「子供の顔をさえ見れば元気になる」という人なわけです。
「翁心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しき事も止みぬ。腹だたしきことも慰みけり。」という文章で表現されています。
苦しい時つらい時→姫を見れば大丈夫
腹が立つことがある→(姫を見れば)大丈夫
ということです。「かぐや姫さえいれば幸せ」という状態ですね。
原文には、姫のことを「いつきかしづき養ふほどに(大事に大事に大事に育てている」という文章もありますが、いつき=大切に育てる、かしづき=大事に育てる、養う=育てる、と「育てる」の意味の言葉が三回も重ねて使われているあたり、まあどんだけ親バカ状態なんだっていう話です。
竹取の翁はもともとは身分の低い下級貴族的な雰囲気で豊かさとはほど遠い感じなのですが、竹林でかぐや姫を見つけてからということ「竹の中から黄金を見つけること」が増えてたちまち大富豪になってしまいます。
お金という意味でも豊かになったわけですが、 「姫さえいれば幸せ」という生きがいも同時に手に入れてしまったのですから、かぐや姫を育てていた時期の竹取のおじいさんは幸せの絶頂期にいると言ってもいいでしょう。
本人的に「これさえあれば幸せ」とか「これが生きがい」というものがあると、意外と客観的にみても幸せになってしまうものです。それが他人から見てどうかはどうでもよいのです。恋人や子供は「世界一」に見えるものですし、そこは素直にバカになるのが合理的だと思います。
※参考 竹取物語 (原文)
この兒養ふほどに、すくすくと大になりまさる。三月ばかりになる程に、よきほどなる人になりぬれば、髪上などさだして、髪上せさせ裳着(もぎ)す。帳(ちやう)の内よりも出さず、いつきかしづき養ふほどに、この兒のかたち清(けう)らなること世になく、家の内は暗き處なく光滿ちたり。翁心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しき事も止みぬ。腹だたしきことも慰みけり。翁竹をとること久しくなりぬ。勢猛の者になりにけり。この子いと大になりぬれば、名をば三室戸齋部秋田を呼びてつけさす。秋田なよ竹のかぐや姫とつけつ。このほど三日うちあげ遊ぶ。萬の遊をぞしける。男女(をとこをうな)きらはず呼び集へて、いとかしこくあそぶ。 (wikisource より)
※「兒=児=子供」「髪上・裳着 昔の女子の成人式(元服みたいなもの)」「かぐやは、動詞なら輝くの意味」「いつき=大切に育てる かしづき=大事に育てる 養う=育てる」「勢い猛の者に→(ここでは)勢力のある富豪にの意」「齋部(いんべ)は、祭祀を司る古代豪族。祭祀を司る一族として他に有名なのは中臣(後の藤原)一族」