復讐は何も産まない ←これほんと?

優雅に幸せに

今日はこの論理を検証してみましょう。

1.復讐は何も産まないケース

この論理は

「仕返しするより他にするべきことがある」

という状況が前提になってます。

例えば、海外旅行先で50万円の車を強盗団に盗まれたとします。現地の警察はまったく当てにならないものとします。民間軍事会社(傭兵)に依頼して大がかりな作戦をすれば回収可能かもしれません。

ただ、50万円の盗品を取り返すのに、数百万円~の経費がかかるとしたら、理性的な人間なら普通は諦めるでしょう。損失を取り戻すために普段の生活を放り出して、何週間も捜索をしたりする。これは普通はなかなかできないものです。

仕事にせよ育児にせよ学業にせよ、復讐と関連しない「なすべきこと」の優先度が高い場合は、復讐は何も産みません。くだらない奴を殺すためだけに、刑務所送りになるリスクを受け入れてしまっていいんですかという話です。

2.逆に、復讐を避けて通ってはいけないケース

半沢直樹でも昔話のカチカチ山でも、

復讐ドラマの主人公達の置かれた状況というのは、「自分のなすべきことをすること=復讐を行うことになる」という状況です。

この場合、「やられたらやり返す 倍返しだ!」と怒りや悲しみを原動力に頑張ることも、プラスに働くことになります。

「敵対的会社に詐欺的な買収をされそうな場合」のような、反撃しないと自分達の「本来のやるべきこと」にダメージがくる場合は、全力で反撃する以外の選択はありえないでしょう。

カチカチ山でも、おじいさんがタヌキにおばあさんを殺されたという状況があります。タヌキという殺人犯を放置しておいたらウサギを含めた自分達にも危険が及ぶ可能性があります。おじいさんまで殺されてしまったら大変なことです。

こういう場合は、ウサギがタヌキを排除するのは合理的です。童話の世界に裁判官のような存在はいません。できる力がある人がやるべきことをするしかないのです。自分で仕返ししてはいけない、というのは法律・警察・裁判所といったシステムが現代社会的に機能していることが大前提です。機能していない世界では、個人が義の怒りを示すことは社会正義のためにも必要になります。

大きな話だと、坂の上の雲などに描かれる時代、日清日露の戦争時代の日本もいい例です。日清戦争後の日本は、ロシアなどの圧力によって日清戦争の成果を横取りされました(三国干渉)。これにたいして「復讐してやる!」と力を蓄えたので、日露戦争では日本は勝ち残ることができました。フランス革命やアメリカの独立戦争のようなものも、旧体制への恨みや怒りが、反乱という非合法な手段をとるキッカケになったと推測出来ます。

つまり何が言いたいかというと、恨みや怒りや復讐心をキッカケに動くのは、別にいつも悪ではないのです。
ただ、復讐心がプラスに働くのは「自分のなすべきことをすること=復讐」が成立つ場合だけです。本当になすべきことをうっちゃっておいて、かつての敵対者をいじめることにうつつをぬかしていては、まさに「復讐は何も産まない」になってしまうでしょう。

相手を不幸に引きずり落とすことよりも、自分が上に登って幸せになることが大事だということです。

nakajima oumi

nakajima oumi

シンボルと精神世界の研究家。 「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」。日本文化と欧米文化は異なるからこそ面白い。

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