あるがまま(自然)ということへの誤解

物語からメッセージを読み解く

「そのままの自分でいいのですよ」というのはセラピストの台詞としてよく聞かれますが、この言葉はとてもよく誤解される言葉の一つです。

そのままでいい=昨日までと常に同じでよい、という意味ではありません。
そのままでよい=去年までと常に同じでよい、という意味ではありません。
そのままでよい=100年前と常に同じでよい、という意味ではありません。

現状で問題が起きている場合、むしろ「昨日までとは違う自分であること」こそが求められています。そのための考え方として「あるがままの自分であれ」「自然に帰れ」ということが提案されるのです。本当の自分は光り輝く存在なのに、無駄な習慣と無駄な価値観によって不要な洗脳をされてしまっているので、それらを取り払って本来の自分自身に目覚めてくださいという意味です。

目覚めの過程において、本来の自分からのメッセージはしばしば自我やその反映としての外部環境によって「拒否」されます。神話学者のキャンベルは「使命の拒否」という言葉で語っていますが、これは理性的な反応ではなく変化を恐れるという動物的な衝動からくるものです。

聖書では、ペテロが鶏が鳴くまでにイエスのことを「知らない」と三回拒否した話があります。
三国志では、孔明が劉備のスカウトを二回拒絶し、三回目でようやく受けた話があります。
古事記では、スサノオはオオクニヌシに対して四回は試練を与えて拒絶し、五回目でようやく祝福を与えます。

現代的なストーリーにするなら、ある日突然空からUFOに乗ったイケメンの王子様がやってきて「貴方をお迎えに来ました」と言われたとします。普通の女性は一度は「本当かどうか分からない」的な反応で拒否するでしょう。もしかしたら10回くらい拒否するかもしれません。ところが「あるがままの自然な自分」というのは、それくらい非常識な装いをしていることがあるものなのです。

「本来の自分の拒否」という段階を乗り越えることで、「あるがまま」の自然な自分への扉が開かれます。「あるがままでよいのですよ」というのは「もう無理に自分の魂の声を拒否しなくてよいのですよ」ということであって、「昨日の自分と同じことをしていればいいのですよ」という意味ではありません。

nakajima oumi

nakajima oumi

シンボルと精神世界の研究家。 「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」。日本文化と欧米文化は異なるからこそ面白い。

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