神仏の世界に模範解答なんかあるわけがない

エッセイ

誰かえらい人の考えた模範回答に乗っかろうという発想を捨てられない限り幸せな未来は手に入りません。神事も俗事も同じです。

*神事に関しては、万人が法王や教皇や教祖の視点でなすべき。
*政治に関しては、誰もが伊藤博文やマッカーサーや岩倉具視的な視点を持つべき。
*ビジネスに関しては、みんながジョブズのような創業者的な視点を持つべき

マスの時代ではなく個の時代としての現代はそういう時代です。誰もが、ある場所ではフォロワー(従者)かもしれないが、どこかの場所ではリーダー(王)になる時代になっているということです。

古典的な例でいうと

*会社では従業員かもしれないけど、音楽活動ではバンドリーダーかもしれない。
*お茶の稽古では素人かもしれないけど自分の勤め先に帰れば大学の学長かもしれない

という話です。

今迄はこんな感じのものだけでしたが、ブログやSNSというメディアの登場で

*誰でもエッセイスト
*誰でも写真家
*誰でも動画作成者

になってしまえるインフラが整ってしまいました。

これすなわち

「万人にリーダーの意識(帝王学)が必須の学問になる時代」

ということです。

昔は信仰の自由を得るためには、「身一つでの国外脱出」が必要な時代もありました。何かを信じるなら「たとえ死刑になっても信じると決める覚悟」が求められるのは今も同じです。例えば、仕事教(労働ならぬ労道)などは私は嫌いです。ただ、本心からあれを信じたいなら信仰すればよいのです。本気で信じれば本人は救われます。

ただ、注意すべきは、自分の意志で何かを信じるのと何も考えずに盲信するのとは全く違う行動だということです。「他人を盲信してついていくだけの人生はもうやめたい」ということであれば

「智恵を愛する」「真実を見る」「本音に忠実でいる」

という強固な習慣を持つしかありません。

「自分の頭で考える」「自分のハートで感じる」「自分の意志で決める」

ということです。

これを私の言葉でひとことで言うと「やまとごころ(大和魂)」ということになります。

nakajima oumi

nakajima oumi

シンボルと精神世界の研究家。 「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」。日本文化と欧米文化は異なるからこそ面白い。

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